中止とは?/ レイク
[ 166] 「靖国」上映中止:「圧力」じわじわと 週刊誌報道、議員向け試写きっかけに - 毎日jp(毎日新聞)
[引用サイト] http://mainichi.jp/enta/cinema/news/20080407ddm012040112000c.html
|
「現場は若い女性スタッフばかりだ。彼女たちは携帯電話の着信音にも右翼団体が来たのではないかとおびえる状況だった。しかし、会社としては上映を支える人的配置は困難だった」。「靖国」の上映中止を決めた「銀座シネパトス」。運営する「ヒューマックスシネマ」(東京都新宿区)の担当者は、苦渋の選択だったことを強調した。 同社によると、右翼団体が、映画館周辺で初めて街頭宣伝活動を行ったのは先月20日午後。3人が乗った1台の街宣車が映画の上映中止を訴えた。22日にも別の団体が来た。いずれも文書での申し入れはなかったが、98年公開の「南京1937」が街宣活動のため相次いで中止に追い込まれたケースを挙げ「同じようになる」と主張したという。脅迫めいた抗議電話もあった。同社は26日、配給協力・宣伝会社「アルゴ・ピクチャーズ」(港区)に上映中止を申し入れ、ポスターも取り外した。その日、別の団体が来たが、中止決定を告げると引き揚げた。 同社関係者は「過剰な自粛と言われるが、安心して上映できる環境を確保できなかったことに尽きる。昨年、試写を見たときは中止に追い込まれることは想像もしなかった。『反日』という言葉が独り歩きしている気がする」と明かす。 最も早く上映中止を決めたのは、東京・新宿の「バルト9」を運営する「ティ・ジョイ」(中央区)。同社は「番組編成上の総合的な判断」としているが、自民党の稲田朋美衆院議員らの意向を受ける形で、アルゴが先月12日に国会議員向け試写会を開いた直後だった。アルゴ側は「右翼団体の街宣車が来る恐れがある。映画館は、商業地の真ん中にあり、近隣施設に迷惑がかかる、という説明だった」と明かす。銀座シネパトスと異なり、右翼団体などからの具体的な抗議はないという。 「Q−AXシネマ」(渋谷区)も「直接的な抗議や特定の団体、個人などからの働き掛けはなかったが、商業施設として万一のことがあってはならない。上映中止は初めてだがやむを得ない」とコメントする。 「シネマート」を東京、大阪で運営する「エスピーオー」(港区)は今月1日、ホームページに経緯を説明する文書を掲載。国会議員による試写会後にアルゴ側に「安全な上映環境の整備」を申し入れたが「中止にすることで了承を願いたい」と申し出があったとしている。これに対し、アルゴは「エスピーオーは、左右両派を招いた試写会を開くことなど実現が難しい条件を提示した」と、ニュアンスが異なる説明をする。両社は公開に向けて話し合いを再開した。 上映を予定している新潟市の「市民映画館シネ・ウインド」は、「個人が会費を払って自由を維持している。23年間、公開を中止した映画はない。自粛ムードが全国に広がった昭和天皇の大喪の礼の時も営業した。大丈夫です」と言い切る。同館では、上官の戦争責任を追及する故・奥崎謙三氏を描いた「ゆきゆきて、神軍」(原一男監督、87年)を上映した時も問題なかったという。 アルゴの岡田裕社長は「映画は上映して初めて事業が成り立つ産業だ。映画館は重要な表現の自由の担い手だ。頑張れるところまで、頑張るべきではないか」と話す。 上映中止が広がるきっかけになった国会議員対象の試写会は、文化庁が製作者側に打診し、会場を手配するなど深く関与した。公開前の議員向け試写に対しては「事前検閲だ」と疑問の声もある。同庁は「稲田事務所から助成金についての問い合わせがあった際に視聴の要望を受けた行きがかり上だ」(芸術文化課)と説明。今回の対応が中止につながったことについては「心外だ」としている。 最も懸念されるのは、面倒なことに巻き込まれたくないと言って靖国問題について議論することを敬遠する風潮が日本社会に広がることだろう。 言論の自由は、新聞記者や作家が書く自由のみでなく、新聞を運ぶ運転手さんや本を販売する書店員の方たちを含めて社会全体に自由が確立されていなければならない。映画館の従業員が圧力団体の脅しにおびえたり、近隣に迷惑をかける恐れがあるから中止するという理由のみを論じたら社会のあらゆる自由はその段階で最初に制約を受けてしまう。 文化庁は封切り前の映画を、問題視する一部の自民党議員の声に押される形で、事前検閲のような異例な試写会を事実上おぜん立てした。表現の自由の制約についてあまりに鈍感過ぎる。「公開されるので見てください」と断るべきではないか。 太平洋戦争に至った昭和10年代は、台頭する軍部におもねる言論が増幅していった歴史だ。そういう社会の中であたりまえのことがだんだん発言できなくなった。ときに一部雑誌などで右派の主張が大きく取り上げられる今日、近隣に迷惑がかかるという限定された状況でのみ上映中止問題をとらえると本質を見誤る。社会の右傾化という大状況をどう認識するかの能力が試されている。ただ、上映する映画館が出てきたことは、日本社会にはまだ復元力があるという健全性を示した。 8月15日。靖国神社周辺は、戦没者を静かに弔うというよりも大勢の参拝者らで喧騒(けんそう)に包まれる。旧日本軍の軍服を着込み、境内で「天皇陛下万歳」と叫ぶ人たち。星条旗を掲げて「小泉純一郎首相を支持する」と靖国参拝に賛意を示した米国人男性は、警察の指導で神社の外に追いやられる。追悼集会に抗議した青年は、支持者に殴られて血まみれに。被害者にもかかわらず、警察官がパトカーに乗せて連れて行く。今回、助成金を問題視した稲田朋美氏が靖国神社参拝を呼びかけるシーンも登場する。 カメラは、日本在住19年に及ぶ李纓監督が10年にわたり見つめた神社境内の現実を映し出す。「イデオロギー的見方を打ち消すためにナレーションを一切排除」(李監督)する手法が全編を貫く。 日本刀は靖国神社の「御神体」で、戦前には、境内で「靖国刀」が製作された。作品には90歳の現役最後の刀匠、刈谷直治さんが登場し、李監督によるインタビューが随所に織り込まれる。小泉元首相の参拝を理解し、戦争を否定する刈谷さんの姿を通じ、靖国の魂と日本人の心情に迫ろうと試みる。 12日 自民党の稲田朋美衆院議員の事務所が文化庁に対して週刊新潮の記事内容の確認と、映画の視聴を要望。これを受け同庁は議員側の意向を仲介する形で、製作した龍影側に上映会の開催を要望。 4月上旬 日本新聞協会、日本民間放送連盟、日本ペンクラブなどが上映中止について懸念を示す談話などを相次いで発表。 毎日jp掲載の記事・写真・図表など無断転載を禁止します。著作権は毎日新聞社またはその情報提供者に属します。 |
[ 167] 絶叫機械+絶望中止
[引用サイト] http://d.hatena.ne.jp/screammachine/
|
『ろくでなしBLUES』のなんていうの、愛蔵版の安いやつみたいなのが出てて、思わず買ってしまった。そして第一話の話の安さに倒れる。こ、これは……!でもやっぱ面白いし、キャラクターの密度的には時代性ってのもあるのかな、という気はする。二段変身(ろれつが回らなくなり、関西弁になる)ってドラゴンボールより先だべ(てきとう)。そういやべしゃり暮らしがもう大変なことになっていて大変だ。ヤンジャン読め! 『ブラッドハーレーの馬車』とか『陰日向に咲く』みたいなのを読むと(一緒にするなと各方面からおしかりの声が来そうだが)、ヴォネガットの言う通り結末なんてどうでもいいやー、って思ってしまう。良くないんだけど。問題なのは結末じゃなくて、どれだけ問題設定がうまくできていて、その問題が解決できるか、ってところにあって、それはつまりまあいいや。 ゲームのシナリオとか、キロバイトでギャラが決まるって話を前に聞いていて、それじゃ今まで書いた日記の総キロバイト数は?!って考えてたら軽く死ねた。ちなみに1万文字で20KBね。 バカブロガーの皆さんこんにちは。今日はバカがばれないようにエントリを書くふしぎテクニックを教えるよ! みんなもバカだから大変だろうけど、ついてきてね! バカは自分がバカだってことを見つめられないから、すぐに「わかりやすく」まとめた記事をありがたがるよ! そして、わかりにくい話を書くひとを「バカ認定」して、悦に入るのがバカのパターンだよ! でも、自分で何かを書くと、なんだかわからなくなっちゃうから、あまり長い文章を書くとバカがばれるよ! そして、理解できてないくせに、首を突っ込んだり、間違えた解釈をして、もっとたくさんのバカからひどいコメントをもらったりするね! さらに、そのエントリに対する言い訳エントリをたてたりして、もう本当にバカ殿堂入りだね! バカはバカだから、理屈と屁理屈の区別がつかないんだよ! 話が戻るけど、バカは論理的思考が苦手だから、なんとなく納得しがちだよ! そして、納得したのを理解したと思って、ひとに教えたりするよ! でも、バカだからお利口さんに間違いを指摘されて、バカがばれちゃうんだねえ……。 そんなことのないよう、納得できたら疑うくせをつけるといいよ! そして「お、このエントリ書いたらモテそう」と思ったら、一度ローカルで書いて、三日ぐらい寝かせるといいよ!冷静なあたまで考えたら、わざわざひとに見せるようなもんでもないからねえ。でもおえかき機能のせいでボクはますますエントリを書く前に考えなくなっちゃったよ! バカだねえ。 やたらと罵倒したり、余裕ぶったりするのも、バカの特徴だよ! 頭を良くみせようとしたり、ことさら悪そうに見せたり、身の程を知らないと、バカが透けるねえ。 「良く知らないけど」って書いたあとで詳細な引用をしたり「別にどうでもいいけど」なんて書いたあとで長文を書いたりすると、あ、こいつバカなんだな、ってばれるんだよ! でもついやっちゃうよね! バカは基本的に身の回りで起こっていることが、どんな原因があって、どのような仕組みで動いているのかがよくわからないから、いっつも怖い思いをしているんだよ! 空気が読めないって言われたって空気って何なのかよくわからないし、映画の字幕は読めないし、もういろいろ大変なんだ。 でも、バカじゃなくなる方法なら、あるよ。それは、怖がらないで、エントリを書いて、バカにされたり、バカにしたりしながら、成長していくこと。バカは、成長しないから、バカなんだよ。 さすがに毎日一万文字はキツかった。なんだか間延びしてきたのでちょっと休む。というか別に連載じゃなくて良かったんじゃないか、前後篇とか。「の」(という題名に決まった)はあと一話だけ続くんじゃよ。 マンガについてもいろいろたまって来たのでそろそろ書こうと思うのだが。どんなのがいいかリクエストください(こういうエントリに反応のあった試しがない)(でも今回は……って毎回期待するの)(待ってる、アタイ、あんたのこと)(鳩)。 全然関係ないけど、最近、線分を使って算数を教える、というのを記事か本かで読んだ。りんごがいくつ、という教え方より、直観的に「数」を教えられる、という触れ込みだったと思う。それが何に書いてあったかを、おぼえてない。すみません。 答えは線が二本。アラビア数字を教える前に、数の概念を教えるという感じ。確か子供は量の概念が先に理解できて、数を理解するのはあとだから、という理由だった気がする。定規を使うんだ、確か。目の前に定規があると、見た目にわかりやすいね。 でも、これで沢山の数を扱うのは難しい。何桁もの数字を扱ったら、紙が何枚あっても足りないね。何でも数が多くなると、省略する記号が必要になる。そういえば、世界で一番古い文字ってのは、在庫表だったらしい。数も同じで、線だけだとわかりにくいから、数字が生まれたのかもしれない。 ギリシャ数字なんてのはシンプルで見たままだから、線の数と変わらないように見えるけど、それでも5や10は省略して、繰り返し使えるようになってる。 漢字やアラビア数字のすごいところは、その字そのものが、その数のある場所をあらわしているところだ。 子供のころに、こうやって教えてもらっていたら、もう少し数に親しめたかな、なんて思ったりした。 向かいの席に座った坊主頭の男が、焦点の定まらない目であたりを見回している。絶対に目をあわせちゃダメだ、昼の各駅停車に乗ったまばらな客たちは、見て見ぬふりをしている。 坊主頭は両足を大きく広げ、バチバチと床を踏み鳴らしている。貧乏ゆすりにしては大きすぎるだろう。とがった皮靴の底がベチベチバチバチと床に当たる。だいたい、服装が豪華だ、高そうな靴、高そうな皮ジャン、手には紙の封筒、集英社って書いてある。 坊主頭がおれを見ている。おれは目を伏せているが、顔の角度は目の端に映る。確実にこいつはおれを見ている、そして舌打ちをしている。「っだよ、ったくよぉ……」と小さな悪態が聞こえる。 おれには電波を誘発する何かがあるのかもしれない。昔からそうだった。そういうのがおれの隣を通り過ぎるときに限って、そいつらは何かを言うのだ。子供のころ、近所の児童館でそういうのがおれを気に行って大変な目に遭ったことを思い出した。その時の傷は今でも顎に小さく残っている。一歩ずれていれば、目や鼻に刺さっていただろう。だが連中に悪意はないのだ、ただ連中は、自分を守ろうと必死なだけなのだ。 周囲が見えないと、恐ろしい。目をつぶったままで平均台を渡るには、勇気ではなく無謀さ、もしくは周到な訓練が必要だ。同じ行動を繰り返すだけなら、訓練でいいだろう。しかし現実はまったく違う姿を見せ続ける。思い通りにならない世界を相手にしたとき、見えていればそれが事実であると気づくこともできるだろう。だが目を閉じたまま行き止まりの壁にぶつかれば痛い。 ひどく曇ったガラスの向こうに、薔薇の花束を抱えた恋人が立っている。ただし君はさっきまで殺人鬼に襲われていて、命からがら逃げた末のこと。手には死んだ警官の持っていた拳銃が握られている。恋人は風邪で声が出ない、君の誕生日にあわせてやってきたのに曇りガラスのドアには鍵。君はガチャガチャドンドンと無言で騒ぐ相手の手もとに、赤い何かが握られているのを見る。それはさっきみた親友の生首とそっくりだ。ざくろのようにはじけ、無残にちぎれた大親友の首。そんな映画のラストが悲劇で終わるとして、誰が主人公を責められるだろう。火をふく拳銃、砕け散る曇りガラス、胸に大穴の空いた恋人、はじけて散った薔薇の花束。 坊主頭が立ち上がって大股でおれの前に来た。殴られたり蹴られたりするのは面倒だ、おれは頭を下げて体を硬直させた。見てません!まったく!一ミリもお前のことなんか見ておりません!だがふと、ばかばかしくなった。危なくなったら走って逃げればいいんじゃないか、それに本当のキチガイなら後頭部にナイフを突き立てるぐらいのことは簡単にやってのけるだろう。そう考えると素直にあいさつでもして、席をゆずればいいんじゃないか。おれは、顔をあげ、そう説明しようと口を開いた。 おれの悲鳴だか、坊主頭の悲鳴だかは、わからない。坊主頭の鼻、口、耳、目からどろっとした血が流れ出し、坊主頭は歯ぎしりをしながら立ったまま痙攣している。血は濁っていて、一向に垂れ落ちる気配がない。それでもおれは坊主頭を刺激しないよう、そおっと横に滑って座席を抜けた。電車が駅につき、同じ車両に乗っていた連中は全員降りた。おれもそおっと降りた。誰も乗っていない客車のドアが閉まり、坊主頭を乗せたまま走っていった。 電光掲示板には、次の電車は十数分後の到着と書かれている。おれはベンチに座り、ひどく深いため息をついた。この駅には見覚えがあった。子供のころ、何かを届けるために、電車に乗ってどこかへ行ったのだ。そのときに乗り換えの駅を間違えたおれは、ここで降りて反対側の電車に乗ろうとした。 今と同じようにベンチに座り、目の前には灰色のコートを着た男、三人の学生、そして半透明のビニール傘を持った女が左から順に立っていた。晴れているのに、なぜ傘を持っているのだろうか、おれには合理的な説明が思いつかなかった。電車が来る、ホームのランプが光り、学生とコート男が電車の来る方を見た。 おれは立ち上がろうとして、前のめりになった。地面が目の前にあって、膝に力が入るのとほぼ同時に、耳を裂くほどのブレーキ音と、警笛が聞こえた。顔をあげると、電車はホームに入り、学生とコート男は進行方向を見ている。立ったままの傘がふらりふらりと揺れて、倒れた。女はどこにもいなかった。 電車はしばらくの間動かず、反対側のホームに臨時が来るというアナウンスを聞いても、おれはベンチから立てなかった。物好きな連中が、落ちた場所が見えるように頭を下げていた。まるで首が重くて立っていられないみたいだった。細長い連中の体から、首がぼとぼと落ちるさまを想像した。落ちた女はまだ生きていたらしい。引き寄せられるようにおれは立ち上がり、停まったままの電車へ近付いていった。ホームと電車のすきまから、ちょうど線路が見える。向こうから光があたって、電車の下は陰になっている。おれはもっと近づく、砂利の上に何かが点々とあって、それが電車の向こうを照らす光を受けてちらつく。おれは黄色いパネルの上に立って、上半身を曲げた。陰の中で何かが動いている、まず濡れた髪の毛が見えた、次に体。そのものではなくて、逆光に照らされたもののふちだけが、おれの目に映った。それはゆらゆらと左右にゆれていて、でも両腕がなかった。揺れながら、それは何かを探しているみたいだった。おれは目を伏せた、すると、まるで耳のそばでささやくみたいに、女の声がした。 あれから十数年が経っているのに、おれは見たものを鮮明に思い出してしまう。こうして再生を繰り返すから、よけいに鮮明になっているのかもしれない。逆に、繰り返すたびに新しい絵を付け加えていると言えないこともない。何しろこれは、おれの記憶なのだ。 やってきた各駅停車に乗り、空いている座席の中でも向かいに誰も座っていない席を選んだ。目指す駅までは数えるほどしかない、もう何も起こらければいい、いや、そうじゃない。何かが起こっても、おれと関係なければそれでいい。 毎日毎日飽きもせず、電車が走っている。何百万もの人間が、電車に乗ってA地点からB地点まで移動する。どうして移動するのだろう、そこにとどまっていればいいのに。いや、違う、おれが今こうして電車に乗っているように、奴らはA地点からB地点へ「移動」しているのではない。A地点には何もなかったのだ、だから仕方なくB地点へ移動する、すると、そこにも何か大切なものがあるわけではなく、C地点ははるか遠くにあるので、やはり仕方なくA地点へと戻る。するとさっき通り過ぎたB地点に何か大切なものを忘れたような気がしてしまい、また戻る。つまり、どこからか出て、どこに行くのではなく、ただ単に帰る場所を忘れた連中が、戻り続けているだけなのだ。 何百万人、何千万人が電車に乗る。あちらとこちらに移動し続ける。その中でさっきの坊主頭みたいにおかしくなるやつがいる。おれは電車というものが、心の何かをおかしくする原因なのかもしれないと思っている。 また新しい路線ができると中づり広告に書いてある。車でも歩いてでも移動できるものを、どうして線路でつなげなければいけないんだろう。地下道に貼ってある路線図を見ると、腐り倒れた巨木の年輪を思い出す。それは、団地裏の森にあった切り株で、昔はそこに巨木があったのだという。その木はいつの間にか中から腐っていて、切ろうとしたら勝手に倒れたらしい。すべて、おれが生まれる少し前のことだ。 裏の森がだんだんと狭くなり、団地が広くなるうち、おれはすっかりその切り株のことを忘れてしまった。ある日、トラックにもじゃもじゃした黒いものが乗っていた。近づくと、腐った木の根が互いに絡み合って、団子のようになっていた。これは何だと訊くと、トラックの荷台に乗った若い男は裏の切り株だと答えた。その小ささと、記憶の中にある切り株の大きさがうまく噛み合わず、おれは思わず「うそだ」と言ってしまった。 若い男はバカにしたように笑った。言っていることの意味がわかると、頬が熱く、耳たぶまで煮えたようになった。体が大きくなったから、ものの大きさが記憶と食い違うという経験は、つい先日一年生の教室に入りこみ、体験したことだった。椅子の小ささ、机の低さ、ものが小さくなったのではなく、おれが大きくなっただけ。 「おれも坊主と同じように思う、掘り返してみると小さいが、こんな細い、毛糸玉みたいな根っこであの巨木を支えられたものかな」 二人は、おれのことなど忘れたみたいに話を終わらせた。若い男が縄をかけ終えると、車のエンジンが始動した。からみあった根が、それぞれ別の生き物のように波打ってぶるぶると震えた。去っていくトラックの荷台に乗った切り株の、腐った切り口がおれの方を見ていた。不正確な円、歪んだ丸、繰り返しながら内側へ、暗い穴へと落ち込んでいくうずまき。 電車を降りると、見覚えのない駅だった。改装工事がいつ頃あったのか、古びた具合からすると十数年前のことかもしれない。とにかく、見たことのない柱に、見たことのない壁、そして見たことのない表示板がおれを出迎えた。 誰もこの駅で降りなかった。ホームから改札へ、丁寧に掃除された階段を降りると、駅前の商店街が広がっている。といっても、目の前にあるのはパチンコ屋と消費者金融、そしてチェーンの居酒屋と軽食屋にコンビニエンスストア。本当の意味での商店街が残るほど、この町には生命力がなかったんだろう。 駅から続く坂道を降りて、おれは、団地へ向かった。坂道の途中にも百円ショップやコンビニがあり、全国にチェーン展開するリサイクル本屋があった。昔の町が失われている、というような、前の世代にある喪失感などというものは、まったく浮かんではこなかった。 坂道を降り切ったところには、昔ゲームセンターがあった。そのゲームセンターが潰れ、レンタルビデオ店ができたとき、おれは十才だった。飲んだくれの母親が連れて行く居酒屋で、酒と苦くて生臭い食べ物の味を知った。母親が宗教をやめ、ニューエイジにはまるまでは、コンビニエンスストアと、チェーンの弁当屋がおれのレストランだった。だから今でもおれは、硬くてつるつるした米が好きだ。 角を左に曲がると、途端に住宅街が広がった。広がる建物たちに見覚えはないが、道路の角度だけはまったく変わっていなかった。違うのは、電柱が埋められていること、ガードレールが白じゃないことぐらいだ。 ここは、駅に近いから、わりと金持ちが住んでいたように記憶している、子供のころ、ほんとうに小さかったころ、ラジコンやプラモデルを自慢していたのは、この辺の子供たちだった。 高い壁で仕切られた道を抜けると、とたんに視界が開ける。おれの住んでいた団地は、この高台からはるか下へ降りたところにある。階段と、くねり曲がる坂道を降りながら、次第に白い塊が見えてくる。学校への登下校は、もうひとつの急な坂道があって、帰り道はそこを転がるように走ったものだった。その学校もいまはもうない、数年前に何かの記事で学校併合後閉鎖され、養護施設になったというのを読んだ。 風は冷たく、薄い雲が油汚れみたいにねっとりと空を覆っている。久しぶりに長い距離を歩いたせいか、体の芯だけが熱く、関節が湿る。歩いた道を振り返る。まるで、垂直に切り立った崖のようだ。側溝を黒い水が流れている。空の白が時折照り返すだけで、あとは本当に黒くて墨汁のように見える。この側溝が集まって、町の中央を流れる川につながり、その川は海まで続いている。何十年も前に作られたその川沿いには、たくさんの団地があって、おれみたいな子供たちがそこでずっと生産され続けている。 イマシロさんも、おれと同じような境遇で育ち、おれと同じように町に出て、おれと同じように壊れた。 今朝、イマシロさんとほか数名が逮捕された。バイト先に行くと、騒然としていて、チーフが電話の対応に追われていた。何人かの編集さんの姿が見えなかった。テレビがついていて、ニュースが流れていた。井戸に落ちた犬が十数時間後に助けられた、という感動のニュースだった。何人もの市職員が水にぬれ、最後は重機を持ち出しての大騒ぎだったらしい。犬は人類の友達だ、大切にするべきだとおれも思う。 昨晩、イマシロさんに卸している押し屋が、コンビニ強盗で捕まった。現行犯だが、逮捕されるまでに店員二人と客一人を殺した。レジに手を突っ込んで、数百円を握りしめながら悩んでいるところを、警棒で殴り倒されたらしい。店員のひとりは電子レンジに頭を突っ込んで、もう一人はレジとテーブルの間に頭を挟んで死んだ。客は老人で、押されて転んだ拍子に死んだらしい。ちなみにおれが遭遇したやつは、未だ捕まっていない。朝、黄色いテープがコンビニに貼ってあった。おれのアパートが通りを挟んだ向かいにあって、本当に良かった。隣にあったらきっと、朝の目覚めに最適なドアをノックする音が聞こえたに違いない。 で、具合の悪いことに、昨晩は編集部の全員がデスマーチを歌っていた。ビデオ班は進行が速いから、おれだけ先に帰っていたというわけだが、寝ることの許されない地獄の行進、寝なくても元気でいられるふしぎな魔法が必要とされるのは、必然と言えた。 それからはトランプタワーが崩れるみたいに一瞬だったらしい。とにかく、編集部にいるのは朝出勤してきたビデオ班と営業のひとだけ、あとは全員連れて行かれたってわけだ。おれが、普通そんなことあるんですかね、と訊くと、チーフは、きっと前から目をつけられていて、何かのきっかけがあれば良かったんだよ、と言った。確かに、何かのきっかけがあれば、こうしてすぐに結晶化することが世の中にはたくさんある。たまたま昨晩は、そういう夜だったということなのかもしれない。 おれは話を聞くと、お茶を買ってきますといって編集部を出た。そして、そのまま駅に行き、新宿へ向かい、電車を乗り継いだ。戻るつもりも、あとのことも、何も考えてはいなかった。ただおれは、どうして、神がおれを選んだのかを知りたくなっただけだ。 母親が宗教をやっていたのは、おれが四つになって父親が女と家を出てすぐからだ。そしていくつか有名どころ転々として、次第にマイナー路線に偏っていき、十でとうとう坊主が家に来た。坊主は固太りで、ごつごつした筋肉の上にじっとりした油をまとっていた。坊主はおれを見て「ミのサイ」があると言った。意味はわからなかったが、母親が喜ぶのでおれは誇らしかった。 現実はいくつもの層に分かれ、そのひとつが今私たちのいる意識界なのだと、その坊主は言った。お釈迦様はその層すべてを見通していらっしゃるが、層と層を行き来することができるのは選ばれた人間だけで、おれや、坊主は、その選ばれた人間なのだと。 仏教の皮をかぶったチンケなオカルトだったが、当時から生きづらさを感じていたおれにとって「選ばれた子」という名前は救いとなった。近い層には似た自分たちがいて、遠い層になればなるほど、自分たちとは似ても似つかない生き物になる。 ある日、坊主と二人っきりになったおれは、部屋のすみにいる蛇について訊いた。だが要領を得た答えは得られず、坊主はおれの家の経済状況について遠まわしに訊いてくるのだった。 坊主の集会は一年ほど続いた。近所の連中が来て占いをすることもあれば、おれが依代になって降霊会をすることもあった。依代と言っても、おれはただ集会の前に読んだマンガや童話のあらすじを、名前を変えて、それっぽく喋っていただけだ。ところが集まった連中は、おれの話す嘘の話に涙を流し、そして前世の罪を洗い清めるために坊主へお布施を払った。一度『よだかの星』をそのまま語ってやったら、それは私の前世ですと泣き出した女がいたのには驚いた。きっと何でも良かったに違いない。 そんなものだから、それらの体験が直接おれに何か宗教的な影響を与えたようには思えなかった。むしろ神仏に対する拒否感や、どうでもいいや、という厭世感ばかりがつのっていった。その後、いくつかの宗教を渡り歩いた母親は、次第に農業や自然食に傾倒し、やがて薄皮が剥けたような笑顔で田舎に帰った。 ただ一度、坊主の言う「別の層」に接触できたような気がした日があった。その日は何も仕込んでおらず、おれは適当に頭を揺らして、うーんと唸って倒れてしまえばいいと思っていた。だが、妙に熱っぽい坊主の読経が、おれをおかしな世界へ連れていった。おれは頭に浮かぶ景色を口に出した。その世界には高く細長い塔のようなものしかなく、その間を平べったくて長い生き物が浮かんで泳いでいる。やがてその中の一匹が塔の皮を食い破って中に入りこむ。長い体をくねらせて、小さな穴からすっかり塔の中へと入ってしまう、すると塔の傷口は自然にふさがって、またゆっくり時が流れる。 おれに話しかけてきた神様は、その時の神様だろうか。おれが神様のやろうとしていることに気づいたあの時から、神様はおれに話しかけてこなくなった。耳の後ろ、数十センチ後ろにいる気配はするのだが、様子を見ているのだろうか、おれが何を言っても答えない。 今おれがここにいることは、神様が予定していたことなのか。それとも、想定外のことなのか。全知全能という言葉の矛盾は、新しい神様には通用しない。なぜなら彼らは全知でも全能でもある必要がないからだ。彼らはただ、求められたことを求め、なすべきことをなすために生まれた。だから、この質問は無意味だ。おそらく神様は知っている、おれがここで、何をしようと考えているのかを。 それにしても平日の昼間とはいえ、あまりにひとがいない。子供の声も、車の音もしない。まるでこの団地が死んでいるみたいだ。窓に目をめぐらせると、洗濯物や何か、生活の跡らしきものがある。誰もいなくなったわけではない。ただ、物音がしない。 もっと重要なことに気づいた。動くものがないのだ。さっきまで吹いていた風はおとなしくなってしまい、背の低い木々はびくりともしない。狭い公園に置かれた遊具、ベランダの洗濯物、どれひとつとっても、動いていない。あまりに動かないので、おれは目がはなせなくなった。何か別のことをしなければ、おれは二度とこの場所から動けないかもしれない。おれの住んでいた部屋を探しに目を泳がせると、その部屋には誰も住んでいないことがわかった。まるで、呼ばれているみたいだな、とおれは思った。 部屋のある棟へと歩く、一階の出入り口は突き抜けており、表と裏、どちらからでも階段のある場所へ行けるようになっているのだ。目線を外さないまま、おれは棟へと進む。まるで何かが動いてくれるのを期待しているみたいだ。おれは目線を外し、団地の中と入った。 階段をのぼりながら、自分の足音に耳を澄ませた。天井が低く、採光窓も小さい。普通、この規模の建物だと、デッドスペースを作らないよう、ほとんどの場所に蛍光灯がついているものだが、この団地だけは十数年前と同じように、角の方がうす暗いままだ。 視界を良くしようと髪の毛をかきあげて、その油っぽさに辟易する。前に風呂に入ったのはいつだっけ? かきあげた髪が束になってべとりと落ちてきて、おれは気味悪さをおぼえた。自分の髪なのに、大きな虫かなにかが降ってきたみたいな感じだ。自分の手や足には、神経が通っているから恐ろしいということはない。でも髪は生きているのに感じることができない。髪の先端は、他人と同じ、いや、死人と同じなのだ。 駅前と違って、まったく変わっていない団地の中は、変わっていないからこそ、何かがおかしいように思えた。壁のヒビ、めくれたペンキの跡、誰がつけたのかわからない天井のシミ。記憶の誤作動なのか、それらがどうして寸分たがわずそこにあるのか。 暗い穴を抜けて、廊下に出た。柵の形が変わっていた。おれがいたころは胸のあたりまでだった柵が、まるで鉄格子のように天井と床をつないでいる。分厚い腰板が昔のままだから、まるで鉄の柵が植物のように伸びて、そのまま天井に突き刺さったように見えた。 廊下の突き当たりは非常階段に続いている。建物の外にむき出しに貼り付けられたそれは、真四角の団地からすれば不自然なデザインだ。おれは、骨折したとき腕に刺さったボルトを見て、この非常階段を思い出した。壁をのたくって上ってくるムカデ。安全策なんだろう、プラスチックのパネルを貼られた非常階段は、よけいにムカデっぽく見えた。 ドアノブに手をかけて回す。当然のように鍵が閉まっている。子供のころ、家の鍵を忘れたおれは、非常階段から足をのばして、居間の窓へとりつき、そこから家に入ったことがある。それを思い出して非常階段から家を見る、とてもじゃないが何の支えもなしに行ける場所じゃない。子供の頃のおれは、空が飛べたのではないか。そう思えるほどに無茶な高さだった。 試すことはない、成功しても単なる不法侵入だし、失敗すれば死ぬだけだ。ドアの上にある表札を見ると、名前の書いてある紙が、黒く乱雑に塗りつぶされていた。何の気なしに、もう一度ドアノブを握ってみる。ゆっくり右側に回すと、カチリ、と鍵の開く手ごたえがあった。 誰かが、内側から鍵を開けた音だ。全身に鳥肌がたち、思わずドアノブから手を離そうと引っ張った。すると、ドアノブを握ったままの右腕は、倒れそうな体にひかれて、ドアを開けてしまった。廊下から差し込む光だけが、部屋の中を照らしている。 誰もいない。当り前のことだ。ドアに足をひっかけ、マウスを握るときみたいに硬直した右手を、ドアノブから引き剥がした。脇の下に脂汗がにじみ、体温が下がっていくのがわかった。 ふたたび、部屋の中を覗く。目が慣れてくると、奥の方がベランダからの光で明るく見えた。カビと、畳のにおいがした。入るべきではない、そう体が教えてくれた。ドアから足を引き抜き、そっと閉める。塗りつぶされた表札を見ると、小さく丸が書いてある。セールスマンがつけるマークかと思ったが、何もそんな高いところに書くことはない。ドアの横には郵便受けがあるのだ。手を伸ばし、紙を引き抜こうとする、伸ばした指がぬるりと黒い部分に触れた。 指にべっとりとインクがついている。この黒いものは、ごく最近つけられたものだ。表札をみたび見ると、さっきの丸も指がついた拍子に消えていた。塗りつぶされる前に、そこに何が書いてあったのかはわからないが、まさかおれたちがいなくなってから十数年入居者がいなかったわけでもないだろう。調べるのは諦めて、おれはドアに指をなすりつけ、インクをとろうとした。 その跡が偶然歪んだ丸になってしまったことは、生涯後悔し続けるべきことかもしれないが、まだそれが何を意味するのかを、その時のおれは知らなかった。 階段を降りて、考える。意味はない、ただのいたずらだ。団地に人気がなかったのは、つまりいま住んでいる子どもたちがみな、学校に行く年だということだろう。いまどきの子供はおれよりも背が高くてもおかしくないし、頭の中が子供のままでもおかしくはない。そんな子供の一人が、学校に行く前に空き室の表札を塗りつぶした、乾きにくいインクか、もしかしたらキッチンの油汚れかもしれない。整合性はとれる、何もおびえる必要はない。 階段を降り切って団地を出ると、目の前の通りを車が横切っていった。風が吹き、振り返れば、洗濯物がはためいている。さっきはなかった蒲団が干してあり、窓が開くともうひとつの蒲団が現れた。懸命に布団を窓から押し出そうとしている誰かのことを想像すると、微笑ましいぐらいだ。遠くを走る車のエンジン音が、おれに現実を思い起こさせた。 今思えば、見知らぬ男の声が聞こえてくるような状況で、あたりの音に何の意味もないことぐらい、わかって然るべきだったのだ。だがおれは、自分の目と耳を疑うことができなかった。手足と同じくらい、それは自分のもので、裏切りはしないと信じていた。 「次は小学校跡地に行ってみよう、建物はそのままのはずだから、跡地というのはおかしいかな。内装はもう直されただろうかね、それとも、あのころのままだろうか」 問題といっても作品のせいではなく(ある意味作品のせいなんですが)、問題にしたのは鳥取県の教育委員会。コンビニで販売されていた雑誌に連載されていた『巨乳ドラゴン』に対して「有害図書」個別指定があったわけです。 思わずテキサスい感じで超訳してしまったが、まあおおむねこんな感じだ。そりゃ興奮するさ。『巨乳ドラゴン』が映画化だ!ってね。でも読んでいくと、どうも変だ、三家本さんの名前がどこにもない!予告編の最後にも載ってない! ここは極東の島国に住む映画関係者諸氏に奮闘してもらい、ぜひ日本で公開する際には「原作:三家本礼」の名前を勝手にクレジットしてほしいものであることだなあ、と思うのであった。そもそも日本で公開できるのか、これ。 仕事を終えて、おれは帰りの電車の中で、半分眠る。隣に座った男から、嫌なにおいがして目が覚める。香水をつけるってのはどんな気持ちなんだろうか。あるにおいが気になるから、別のにおいをつけるという発想は、洋の東西を問わずあったみたいだが、どうにも馴染めない。最近は脱臭剤でも無香のものが多いから、おれと似たような発想の人間が多いのかと思ったが、よく考えてみるとおれは脱臭剤そのものを必要としていないので、あまり関係はなかった。とにかくにおいを消そうともがくことが、更なるにおいを生み出す結果になっているのはどういうことだろうか。 などと考えていると電車が新宿についた。大量のにおいが降りて、また多くのにおいが乗り込んでくる。ナフタリン、たばこ、酒、おっさんの加齢臭、若い女の甘いにおい、デブでわきが、ガキのミルクくささ。それらが混ざり合って、次第に感覚を麻痺させていく。鈍磨したにおいの神経が、やすらかな眠りにつくとき、おれはにおいの歴史の中で取り残された気持になる。どんなものを見ても、何かを思い出しているくせに、においで何かを思い出すことがない。五感の中では視覚と聴覚が強く、次いで触覚、味覚、嗅覚と続く。視覚、目、そうだ、おれは目で何かをおぼえようとする。つまりおれも、イマシロさん言うところの「視覚的人間」なのだ。 そんなおれが文字を書いていたのは、これは単に絵が下手だったというだけのことにすぎない。小学校のときに図画工作部にいて丸が描けなかった。線をひいていくと、どうしても「ゆるいうずまき」ができあがってしまうのだ。今思えば、定規やコンパスを使えばいいものを、なぜあの女教師はおれに丸を描かせようとしたのだろうか。あの女教師の流れるような長い髪を思い出す。よく張った太股を包む青いジーンズ。のびる材質のあのジーンズは、腰の線をくっきりと浮かびださせ、何も知らないはずのおれの神経をたかぶらせた。机につっぷしたまま、丸の描けないおれに、女教師が顔を近づける。長い髪がゆれて、机の上におちる。 放課後の図工室で女教師と二人、おれは延々白い紙に丸のような模様を描いた。いくら描いても丸にはならず、ゆがんだ円はうずまきに近づいていく。その時の窓からさす光、机の木の色合い、遠くの校庭で遊ぶ連中の嬌声、教卓で本を読んでいる女教師の組んだ足。においだけが、その記憶からすっぽり抜けていた。 強烈な視覚的人間が、絵を描く能力を奪われるとどうなるか。おれはその実験台なのかもしれない。だから文字に手を出した。そしておぼれ、飲み込まれ、吐き出された。文字はおれを弄んで捨てた。絵ではなく文章なら記憶を書き留めることができる、話すのは苦手でも、文章なら推敲ができる。他人と交流するために、文章ほどよい道具はない。そう思ったおれを救ってくれるはずの言葉達は、書けば書くほどおれから離れていった。 丸を描いているつもりが、ゆるいうずまきになってしまうように、おれの書く文章は横滑りを始めた。言いたいことがあったはずなのに、書いている最中に別のことへと変わってしまう。あわてて軌道修正をするが、もうもとには戻らない。最初に何を言いたかったかはわかっているから、横滑りを止めて、とりあえずの結論を書いて終わらせる。文字を踊らせる遊びが、いつのまにか文字に踊らされていることに気づいて慄然とする。誤解され、曲解され、文字数を減らしても減らしても横滑りは直らず。こんなはずじゃなかったのに、といやな気持になってブログを閉じた。 いまここに女教師がいたら、言うだろう。どうして書けないの? わかりません。書けるまで練習しなさい。わかりました。そしておれは丸を書きながら、おれの手をとって教えてくれたらすぐに描けるようになるのにと思うだろう。女教師がいつ、おれに丸を描かせるのをあきらめたのか、おれが図画工作部に行かなくなったのか、そのあたりの記憶はあいまいだ。探ればただ、ゆれる天井と、まわる床、そして窓の明かり、踊る黒い髪だけが見える。 いくつかの駅を過ぎる間、おれは中づり広告に目を通した。雑誌のあおり広告がざくざくと目に突き刺さる。赤と白、紺、黄色。とくに赤と白と黒の組み合わせが不愉快だ。書いてある事件の内容へのいらだちと勘違いしてしまうのではないか。そう思うとライターという職業もあわれなものだ。どんなに素晴らしい名文を書こうと、おれという人間一人が、色ごときに惑わされてしまう。この世界がすべて白黒だったらどんなにか素晴らしいだろう、ひとは文字を見てその内容だけに心躍らせる。だが色のない世界、おれには苦痛でしかない。文字はおれを助けてはくれなかった。何かを書こうとすると、必ず邪魔をした。三千文字しか書けなかったのは、おれが文字に勝てなかったからだ。おれは負けた、以来負けっぱなしである。 意地になるまでもなく、おれの手が一万文字を書こうとする気配はない。「どうだい、働いてるかい」じっと手を見れば、むしろ文字というものをこの手がどこかに書きつけるなんてことが、どだい無理な話だと思えてくる。 おれの手はマウスを握る形に変形している、掌の骨が卵型にゆがみ、小指から中指までの三指、そして親指は、ほとんど硬直している。左手はショートカットを押すために独立して動くが、それでも薬指でCtrlキーを押すおれの左手小指は、軽く曲がったまま九時間動かない。このまま本当に変形してしまえば、二度とこの右手はペンを握ることもできず、タイプすることもできないだろう。そのためにはあと何十年マウスだけを握っていればいいんだろうか。目の前にパソコンのないときもマウスだけは握っているべきだろうか。マウスを握ったままコンビニへいき、商品をクリック、ドラッグ、できるだろうか。できるか馬鹿。 コンビニのことを考えていたら、コンビニに行きたくなった。駅から家に帰る途中でコンビニへ寄ろう。おれの生活範囲はバイト先とコンビニと家に限られる。なんと心地よい三角形だろう。壊したくない。金があって困ることはないが、そのために時間を費やすことはない。 なんにせよざまあみろだ。何が一万文字だ。だいたい冷静になって考えてみれば、神様の言っていることの無茶さが見えてくる。おれがブログを書いていたころには、確かに一日三千字ほどの文字をタイプしていた。だがそれは何か意味のあることに限られていたのである。意味があったからこそ、横滑りする文字の反逆に疲れたおれは、書くことをやめてしまったのだ。 神は申された、意味のないことを一万文字書きなさい。確かに横滑りすることはないだろう。なぜならそれは全て横滑りなのだから。そんなものは、単なる苦行でしかない。なぜおれが文字を書いていたか、それは文字なら誰にでも通じるからだ。その「通じる」ということを失った文字に、興味はない。 同じ文字を使う相手には、ある程度ぶっ壊れた文章でも意味が通じる。これはおれにとって救いだった。しかも時代は進み、インターネットの上では誰もおれが丸を描けないことに気付かない。紙にペンで書いた文字を見れば、なんとなく絵が描けないということは推測がつくかもしれない。ゆっくり書けばどうにかなるレベルの文字ではないのだ。 いかにも神の言いそうなことだ。意味のないことを一万文字書いても、意味がないから誰も読まない。誰も読まないものを毎日一万文字も書けば金持ちになれるというのなら、毎日「うんこ」と三千三百三十三回書けばいい。最後の一文字は「う」で終わり、翌日は「んこ」から始まるのだ。 駅からおれのアパートに続く道の途中に、そのコンビニはあった。「あった」というのはつまり、今はない、ということだ。いつなくなったのだろう、今朝は寄らなかった、昨日の夜は? アパートに帰ってしまえば、通りの向かいにあるコンビニが近い。おれは疲れて一度寝て、夜中に起きて向かいのコンビニへ行ったのだ。なぜおれがコンビニを愛しているのかを、今まさに痛烈に気づいた。おれはひとに出会いたいのだ。だがそれは一度に数百円レベルの出会いでかまわない。 コンビニの店員は無愛想かもしれないが、確かにそこに生きていて、家に帰れば何かの生活をしているのだ。夜中のコンビニともなれば、長髪、金髪、刺青、ピアス、そのものではなく、それらの痕跡をみとめるだけで、おれは生き物にふれた感動を味わうことができた。店員だけではない、十二時ごろのコンビニに来ている男と女、午前二時ぐらいのコンビニへやってくる女の二人組、朝四時のコンビニで酔いを醒ますホストと派手な女。さまざまな客と、さまざまな店員が、まったく触れあうことなく同じ箱の中ですれ違って行く。おれにとってコンビニは、数百円で楽しめる動物園なのだ。 そのコンビニがいま、おれの生活範囲から消えつつある。もし三軒目が消えたら何をしよう、消えゆくコンビニをテーマに歌を作ってチャリティーコンサートを開こうか。そして貧乏になったマイケルジャクソンとコンビニトークショーをしよう。ふと見ると閉まったシャッターに「改装工事中」の張り紙があった。残念なことだが、チャリティーコンサートを楽しみに集まった子供たちへ謝罪のメッセージを送る羽目にならずに助かった。 おにぎりの棚で新製品を見つけた。イカ明太、これだ。定番のシャケとイカ明太、そして紙パックのカプチーノを持って、レジへ進む。おでんの水を入れ替えていた男が、おれに気づく。小さな声だ、いいぞ、目を合わせずに商品を手に取りバーコードを読み取る。ネームプレートにはキムラと書いてある。新人だ、初めて見る顔、声、仕草、そして名前。お前の名前はキムラ、わかるぞ、お前の名前がわかる。キムラ、お前はこんなところでレジを打っているような男じゃないんだよな。キムラ、子供のころ、お前の夢は何だった? 将来お前は何になりたいと思っていた? だけどキムラよ、お前のこの姿は美しい、よれよれの制服に疲れた無表情の顔、すべてが完璧にキムラ、お前という男の人生を表している。 キムラとおれが二人、真っ白な部屋で向かい合って立っている。決して目を合わせずに、商品だけが二人の絆となる、いまこの瞬間だけ、おれは貴様と向い合せになり、そしてその距離は限りなくゼロに近づく。レジの向こう側とこちら側は、厳密にいえば背中合わせで地球を包んでいる。おれとおまえは、世界を介してつながっているのだ。わかるかキムラ、これがコンビニユニバース理論といって、いまおれが適当に考えた。 おれはあたたかいおにぎりが好きだ。コンビニのおにぎりは調整されているから、米のでんぷんを温めないでもうま味が出るようにしてあるらしい。だがおれはやはり、熱を通したときのでんぷんがもたらすあのうま味こそ、おにぎりを食べる醍醐味であるように思っているので、寿司系と「あたためないでください」という指示のあるもの以外は、ほとんどのおにぎりをあたためて食う。特に明太系のおにぎりをあたためたときのうま味は絶品だ。想像してほしい、炊き立てのご飯が茶碗に盛られ、その上にチョッと明太子の切り身を乗せる。その模造品が、ほんの百数十円で手に入るのだ。 まただ、前にもあった。今回はイカが原因だ。前は確か酢飯系だった。寿司ではなく酢飯系の場合はあたためるというま味が増すため、おれはよく温めてもらうのだが、その時は店長のモリキワが不審げな顔で「え、これですかぁ?」と言ったのでそれから二週間そのコンビニには行かなかった。何も客の言うことに反発したから怒ったというのではない、ただおれはおにぎりをあたためてもらいたかっただけなのだ。それなのになぜ、まるでおれが物分かりの悪いガキのように扱われ、怪訝そうに「これを?あたためるの?」といったような質問に晒されなければならないのだろう。何も整髪料のボンベをあたためろと言っているわけじゃないのだ。ただおれは、食べるために、そのおにぎりをあためてほしかっただけなのだ。 キムラ、お前におれの何がわかる。おれにお前の人生が何もわからないように、キムラ、お前にもおれがおにぎりをあたためる理由なんてわかりはしないだろう。だからキムラ、黙れ、それ以上おれの嗜好に踏み込まないでくれ。頼む。 キムラ、お前全然わかってない。お前の趣味嗜好を押し付けないでくれ。お前はコンビニソムリエか、おれの唯一の楽しみを汚さないでくれ。何も努力なんてしなくていい、ただお前は「面倒くさい客だなあ」と思いながら、おにぎりをあたためてくれたらそれでいいんだ。なぜお前はおにぎりの美味しい食べ方をおれに教えようとするんだ。 キムラよ、なんだかおれはお前のことが好きになってきた。だからといって、おれも嗜好を曲げるわけにはいかない。今あたためてもらえば、家に帰って食べるときにちょうどよい温度になっているはずなのだ。すまないがキムラ、おれはお前を拒絶する。 キムラは意外にも、素直に電子レンジへ向かった。面倒くさい客だと気づいたのか、それともお前がおれじゃないことに気づいたのか。あたたまったおにぎりを持って、キムラがレジに戻る。 黒いフルフェイスマスクの男がナイフを持ってキムラに言った。キムラから受け取った袋を持ったまま、おれは腰を抜かして倒れた。キムラ、言うことを聞け、すぐに金を出せ、店には保険がかかっているはずだ、お前が命を賭けるような仕事じゃないんだ。キムラ、お前の将来の夢は何だった?未来のお前は何をしているんだ、キムラ、やめるんだ、ナイフに手を出すな。 男のナイフが横に滑り、キムラは首を押えた。男はあいたままのレジから金を取り、隣のレジからも金を取った。慣れている、慣れているくせに。キムラの両手から、真っ赤な命がこぼれて消えた。 男が去り、数百年ぐらい経ってから、がくがくする膝を叩いておれは立ち上がった。レジの奥にキムラが倒れている。もう血は止まっている。目を伏せたまま、おれたちはあのとき、何か通じあえただろうか。キムラ、小太りで髪の薄いメガネ。 防犯ベルが鳴っている。おれはコンビニを出て家に帰る。数日後、誰かがおれの家のドアを叩くだろう、そのときまでキムラ、さよならだ。 少し冷めたとはいえ、やはりあたたかい方がうまい。明太の辛味が薄い気がするが、イカの質感は申し分ない。それよりも、おさえで買っておいたシャケのうまさに驚いた。単なるシャケなのに、粕漬け系の甘味と量感がある。さすが160円クラスは違う。キムラもシャケをあたためることには同意していた。シャケはあたたかい方がうまい、という共通認識があったのだろう。そのキムラも今はもういない、ほんの数十分前のことだった。フルフェイスマスクの黒、キムラの赤、蛍光灯の白、警察が来たらなんと言おう、びっくりしました、うん、これがいいな。 電気が消えたあとのもやもやした闇が好きだ。光のつぶがずらずらと流れ、不定形のかたまりになって闇の中をうごめいている。子供のころはそれを妖怪か何かだと思い込んでいた、蛇のような妖怪が、おれの部屋の隅には住んでいる。そう考えるだけで心が躍った。 眼の端に映るのはいつもうろこの立った太い蛇だった、それなのに、おれは夢で蛇を見たことが一度もなかった。夢に出てくるのはいつも現実に見る風景ばかりで、いわゆる「夢のような風景」を夢に見たことは一度もなかった。だから、寝入りばなに見るこの光のつぶが、おれは好きだった。明るい部屋では、それを見ることができない。光のささない真っ暗な場所に行くと、網膜が光とは別の何かを受け取って、それを見せてくれるように思った。実際は光の入力がないから、単なる電気信号のちらつきを光だと御認識しているだけなのかもしれない。それでもその蛇は、おれの部屋の隅でうごめいていた。 ここに越してから、アパートに面した通りは、朝まで車の途切れることがないから、オレンジと白の明かりをふせぐために、おれは分厚いカーテンを買った。 毛布のように分厚いカーテンを、と、おれは店員に注文した。それはあたたかい日で、おれよりもはるかに身長が高く、若そうに見える女の店員は、にっこりと笑ってサンプルの入ったファイルを差し出した。来年新卒の研修生なのだろう、初々しいその丁寧な対応が心地よい。さらには、その掌の大きさに、おれは興奮を隠せなかった。寸法にして数センチ、体積の違いがおれの性欲をかきたてる。運動をやっていたのだろうか、骨格もしっかりとしていて、筋肉もついている。押しつぶされたい、この掌に包まれたい。ファイルに貼られたサンプルをしめすその指の太さに、頭がクラクラした。もう一度顔を見る、すっかり補正がかかってしまって、まるで天使のようだ。おれは女の顔をまともに見られない。 古来、女は大地であった。そう言ったやつの顔をおれはひっぱたいてやりたい。ばか!愛してる!そう言って抱きしめてやりたい。自分より小さな女に欲情する男の気がしれない。あんな奴らは全員ロリコンの変態で、家には幼女ポルノがたくさん置いてあるに違いない。いや、百歩譲っても、小さくてやせ細った女しか女と認めないような男はつまり、人間を外見で判断するという愚行を間違いとも思わない悪辣非道な輩なのである。 電気が消えたあとのもやもやした闇に、いやらしい笑い顔が浮かんでは消える。おれは ぐちゃぐちゃになった毛布を広げて、その中にうずくまった。明日から旅に出よう、このどうしようもない循環を断ち切ろう、そして神様と一緒にどこか遠くへ消えてしまおう。おお、おれは神殺しの男、ラララ。眠れない。 神様は心底、心外そうな声で答えた。おれはなんだかおかしくなって、笑いだした。そりゃそうだ、こんなごみためみたいなところに来るのは、日本の神様ぐらいのもんだろう。 一瞬頭に「小説の神様」の名が浮かんだが、すぐにその妄想はかき消えた。何しろこいつは突然現れて「自己啓発本を書いて儲けよう」ともちかけてきたのである。どれだけ詐欺師的な現れ方が世の中にあるとしても、これほど詐欺師的な現れ方はほかにないだろう。まず儲けようという題目が詐欺以外の何物でもない。儲け話が儲かるのは、それを誰も知らないからである。もし誰かに「誰も知らない儲け話をあなただけに教えよう」と言われたときには、三つの理由を想定するといい。ケツを貸りたいか、ケツを貸したいか、お前をカモりたいか。 次に自己啓発本である。おれも数年前はずいぶんとその手の本を読んだものだが、これを書くのには才能がいる。どんな才能かというと、それは「非、実験精神」とでも言うべきものである。 自己啓発本には二種類ある、ひとつは過去の成功例から成功の法則を導き出したもの、もう一つは自分でやったもの。自分(もしくは誰某)は、このような方法で成功した、だからお前もそれをやれ、というわけで、まるでこれだけ聞くと「実験」に成功した方法を皆さんに教えますよ、というふうに感じてしまう。だが思い出してほしい、誰も知らない儲け話をあなただけに教えるとき、ひとは何を求めているのかを。 ある成功例は、ひとつの成功例に過ぎない。それがわかっているからこそ、広告はすべて「この本を読んで成功しました」という読者の感想文であふれかえっているわけだ。つまり、それがどのような成功例であれ、誰にでも当てはまるかどうかは、やってみなければわからない。 これが科学の実験であれば、何度も追従実験の行われたものなら、その実験を行って同じ結果が出る確率の高低もわかるだろう。しかし、相手は人生である。そんなもん思い込みでどうとでもなるし、何をしたってどうしようもない時もある。 ともあれ、この神様、今おれの頭の中で自慰の邪魔をしているこの神様に関して言えば、古今東西歴史上どこを探してもいないくらい最悪の詐欺師である。何しろ成功例の一個もないことを、おれにやれと言うのだ。 おれはとにかく自慰がしたくてたまらないので、考えるのを中断し、妄想を再開した。家具売り場で会ったでかい女のことを思い出す。まだ若く、肌のつやもいい。どんなシチュエーションにしようか、おれが上司で、相談に乗っているうちに、というのはどうだろう。裏の資材置き場とか、そういうところで話を聞きながら、なんとなくいい感じになってくるってのは、どうだろう。 「見ろよ、一晩だ。お前が話しかけ続けるから眠れなくて、昨日一晩でゴミを全部捨ててしまった。一昨日まで部屋いっぱいにあったのに、分散して捨てるのにどれだけ歩きまわったと思う? おかげで今日の昼は眠くて仕方なかった、仕事にならなかった」 「でも、住みよい環境になっただろう?こうして人間はより良い環境で自己を啓発しながら生きていけるのである」 頭の中に虫が入り込んで、光をもとめて飛び回っているみたいだ。神様、お前にはわからないかもしれないが、直したってどうしようもないやつがこの世にはいるんだよ。ファーブル琉・肉バエの集め方。さかさまにした籠の中に肉をつるし、下が開くように設置する。肉のにおいにつられてやって来たハエは、下から入り込んで肉へとりつく、しかしハエは上に向かって飛ぼうとし、籠の下が開いていることに気付かない。 底の抜けたバケツで水をくむようなものだ。そして、その穴は宗教も科学も埋めようがないのである。トタンの壁が小便で腐っていくように、最初は小さな穴だったものが、次第になんだかわからないうちに広がって、いつの間にか壁よりも穴の方がでかくなってしまう。空虚な穴があって、その中に壁だった境目がある。 全身に鳥肌が立った。何がおかしいか、うまく組み立てられないが、違和感の原因に気づいたのだ。なぜ、幻覚なのに、こいつの顔がおれには見えないのか。なぜ、こいつはおれに文字を書けと執拗に勧めるのか、なぜおれなのか。それらの「答え」ではなく答えを導き出すためのルートが少しずつ頭の中でカチカチと音をたてて組みあがっていく。ぼんやりと見えるその答えに近づこうとすると、全身の細胞が悲鳴を上げる。 麻草郁【あさくさかをる】フリーの企画構成業。マンガや映画の評論など。ここでは日々ふしぎだと思うことへの愛を発露する。たまにゆがむ。 |
レイクのサイトです。